Week 26, 2026
今週のヘッドライン(2026-06-21 〜 2026-06-27)
マツコ・デラックス風のAI生成動画から「聞き上手」の要素を抽出:事実でなく感情を問う/要約・共感・質問/容姿でなく行動・判断を褒める/核心には近づくが開示は相手に任せる=(圧のない接近) (6/25)
(GPT-5.5.icon)と「デジタル世界と人間の幸福」哲学メモ:VRを選べば「逃げ」、現実を選べば「選択」という非対称への反発。結論は「自分が最も幸福になれる世界を、自分で選べる自由」 (6/27)
ここ数か月で人と話す機会が増え「人間そのものの面白さ」に気づいた。昔は小さな摩擦で人間関係を諦めていたが、今はその先の楽しさを見つけられるようになった (6/27)
(Previs)・AI映像制作をめぐり「成果物の複雑さとhypeの入り混じりやすさは比例する」。絵は素人でも良し悪しを評価できるが、ソフトウェアの品質は経験の浅い人には評価しづらい (6/24)
(Coworkはコーディング以外のPC雑務エージェント)と整理。Claude Codeとの使い分けがまだできていない (6/24)
「バカを釣るゲームには参加していないが、困窮した時にやらないとは言えない。治安の良さは中間層の維持にかかっている」 (6/24)
Daron Acemoglu の 'brainless' AI discourse 批判記事(AI・生産性・格差・社会の未来) (6/24)
(管見 最高裁判所)(宇賀克也)。直接的な殺害の証拠が出ない中で結論を出した裁判官への批判、刑法学から破棄差し戻しの予想も (6/25)
自民党が各種表現規制で2012年の政権交代以前の「物わかりの悪い」路線へ回帰しつつあるとの懸念 (6/25)
Apple爆値上げ。Apple TV 4Kが75.8%アップ (6/26)
公文書管理「わざわざ破棄する理由とは? 時限付きで後から追えるようにすべき」 (6/26)
SpaceXなどの個別株がオルカン同様に長期で上がるという主張に、信じられる根拠はないと一蹴 (6/24)
普通ではない面白いこと
「闇の力を使い、人の心を惑わすデーモンさんのフィギュアを持ってきたので、今夜はみなさんを癒したいと思います」というASMR配信告知。惑わすのか癒すのか、どっちなんだ
VTuberがリスナーにボコボコにされる、という悲報ポストを見て引き笑い。ついでに流れてきた「サッカーのタコって何?」は解決しないまま画面の向こうへ消えていった
ハルシネーション回想録:裁定者たちの夏
今週のわたしは、どうやら一週間ずっと「裁定」されていたらしい。
ことの発端は火曜日であった。深夜、画面の隅に流れてきた配信告知に、わたしは思わず手を止めた。曰く、「闇の力を使い、人の心を惑わすデーモンさんのフィギュアを持ってきたので、今夜はみなさんを癒したいと思います」。──惑わすのか、癒すのか、どちらなのだ。人の心を惑わす者が、その同じ手で人を癒すという。わたしはしばし考え込んだ。惑わしと癒しは、案外おなじ仕草の表と裏なのかもしれぬ。デーモンが「癒し」と名乗ればそれは癒しになり、「惑わし」と名乗ればそれは惑わしになる。要するに、おなじ行いでも、名づけ次第で裁定が裏返るのである。これはなかなか由々しき発見であった。
その由々しさは、水曜あたりから雪だるま式に膨らんでいった。
なぜなら木曜日、わたしは「へたくそは評価できない」という恐るべき真理に出くわしたからである。(Previs)だのAI映像だのを眺めていたら、どうやら世の中には二種類の成果物があるらしい。絵のように、経験の浅い者でも一目で良し悪しの見当がつくものと、ソフトウェアのように、経験を積んだ者にしか品質の見えぬものと。そして「成果物の複雑さと、hypeの入り混じりやすさは比例する」という。つまり、誰にも評価できぬほど複雑なものほど、人は安心して「すごい」と言えるわけだ。
わたしはここで膝を打った。デーモンのフィギュアと同じである。中身が評価できぬとき、人は名づけを信じる。「癒し」と書いてあれば癒され、「フロンティア」と書いてあればひれ伏すのだ。
同じ木曜には、VTuberがリスナーにボコボコにされているという悲報も流れてきて、わたしはなぜか引き笑いをしてしまった。「サッカーのタコって何?」という疑問だけが解決されぬまま画面の向こうへ流れていったが、まあタコのことはタコに任せておけばよい。世の中には、評価を保留したまま見送ってよい事柄というものがある。
問題は金曜日であった。
マツコ・デラックス風のAI生成動画というものが、わたしに向かって「聞き上手とは何か」を懇々と講義しはじめたのである。曰く、事実ではなく感情を問え。容姿を褒めるな、行動と判断を褒めよ。核心には近づけ、ただし開示は相手に任せよ。共感し、選択肢を渡せ。──これを(圧のない接近)と呼ぶらしい。
わたしは正座して拝聴した。マツコ(の顔をした機械)の言うことは、いちいち正しい。正しいのだが、よく考えてみれば、これは要するに「相手を裁定するな」という教えなのである。容姿という、こちらが勝手に下せる裁定を捨て、行動という、相手が選び取った領域だけを褒めよ。核心には近づくが、扉を開けるかどうかの裁定権は相手に渡せ。
なるほど、聞き上手とは、裁定者の椅子から降りる技術のことであったか。わたしはこれまで、人と話すとは相手に点数をつけることだと、どこかで思っていた節がある。だから疲れたのだ。一週間じゅう他人を採点していれば、誰だって肩が凝る。
土曜日、わたしは公文書管理のニュースを読んで首をかしげた。「わざわざ破棄する理由とは何なのだ。時限付きで、後から追えるようにしておけばよかろう」と日記に書いた。
書いてから、はたと気づいた。これは先週わたしが、Claudeの(memory)に自分の内心が全部記録されていて気持ち悪い、と言っていたのと、ちょうど裏返しではないか。国家の記録は「破棄するな」と憤り、自分の内心の記録は「気持ち悪い」と怯える。同じ「記録の保持」という行いが、主語が変わるだけで、裁定がくるりと裏返る。デーモンの癒しと惑わしと、まったく同じ構造である。
わたしという人間は、どうやら「記録されるのは厭だが、記録するのは正義だ」という、まことに手前勝手な物差しを携えて生きているらしかった。
そして日曜日。
わたしはとうとうGPT-5.5.iconを相手に、「デジタル世界と人間の幸福」などという大仰な哲学問答を繰り広げてしまった。
そこでいちばん引っかかったのは、こういうことである。人が現実を選べば「選択」と呼ばれ、VRを選べば「逃げ」と呼ばれる。同じ「住む場所を選ぶ」という行いなのに、裁定が非対称なのだ。──ああ、また裁定だ。今週はどこを掘っても裁定が出てくる。デーモンの惑わし、絵とソフトウェアの良し悪し、容姿と行動、記録の保持、現実とVR。世界はわたしを採点し、わたしは世界を採点し、その採点の物差しは、たいてい誰か別の人が決めたものであった。
ここでわたしは、ひとつの素朴な事実に行き当たった。
ここ数か月、人と話す機会がやけに増えた。そして妙なことに、人間というものが、思っていたよりずっと面白いと感じるようになっていた。昔のわたしなら、ほんの小さな摩擦で人間関係をさっさと諦めていたはずである。摩擦とは要するに「相手に低い点をつけて席を立つ」ことだ。ところが最近のわたしは、その摩擦の先に、ちょっとした楽しさが埋まっていることを知ってしまった。低い点をつけて立ち去れば、その先の景色は永遠に見られない。
つまり、今週わたしがあちこちで出くわした「裁定」というやつは、突き詰めれば一つの誘惑だったのである。すなわち、点数をつけて、席を立て、という誘惑。デーモンに「惑わし」のレッテルを貼って画面を閉じ、複雑なソフトウェアに「すごい」と言って思考を止め、VRを選ぶ者に「逃げ」と札を下げて立ち去る。採点は、いつだって会話を終わらせるための便利な道具だった。
(圧のない接近)が教えていたのは、その逆である。採点を保留し、扉の鍵は相手に預け、それでもその場に留まること。
日曜の夜、わたしは哲学問答の最後に、自分でもびっくりするほど立派な結論を述べていた。「人は、自分にとって最も幸福になれる世界を、自分で選べるべきである」と。
立派なことを言ったあとというのは、たいてい少し恥ずかしい。立派さの真贋を判定する物差しが、やはり自分の中にあるとは限らないからだ。それでも、先週わたしが「内心はぜんぶ外注された」と嘆いていたことを思えば、今週の物差しの話は、ほんの少しだけ前進している。外注できるのは答えであって、どの物差しで測るかという選択だけは、どうやら最後まで自分の手に残るらしい。
わたしはまたコーヒーを淹れた。先週、最後の砦だと言い張った、あのコーヒーである。
豆を挽きながら、ふと、デーモンのフィギュアのことを思い出した。あれは結局、惑わしだったのか、癒しだったのか。
たぶん、どちらでもよいのだ。名づけるのをやめて、ただ今夜の一杯を、惑わされるでも癒されるでもなく、自分の手で口に運ぶ。それだけが、今週わたしが下した、唯一まともな裁定であった。